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羊羹:關於吃的文化交流

作者:由 壤室讀書 發表于 曲藝日期:2021-12-01

羮拼音怎麼讀

羊羹:關於吃的文化交流

慄羊羹

來到日本,朋友推薦日本的お土産——慄羊羹,我笑了笑,說:這不是天津特產麼。為什麼會出現在日本也是特產,在天津也是特產的現象呢?大概關於吃,我們瞭解的恐怕還遠遠不夠。

在日本,慄羊羹被當做茶果子,用以中和抹茶的苦味,故而是甜的。天津的慄羊羹也很甜,所以到現在我們已經不太愛吃了。天津的甘慄在日本卻是很有名的,我曾給日本人分享過從天津帶來的甘慄,他們連連說在日本天津甘慄很有名,但日本的不正宗。在異文化中,或許正是一種不起眼的小食,能夠喚起文化的認同。

周作人在1957年發表過一篇小文章《羊肝餅》,開篇提到:

有一件東西,是本國出產的,被運往外國經過四五百年之久,又運了回來,卻換了別一個面貌了。這在一切東西都是如此,但在吃食有偏好關係的物事,尤其顯著,如有名茶點的“羊羹”,便是最好的一例。

羊肝餅,也是慄羊羹的別名。我們稱慄羊羹有很多叫法,如羊羹、栗子羹、羊肝羹等等。不過,周作人雖然如是言,但他自己也知道很難在中國記載帝王將相的古籍中找到現代意義上慄羊羹的原形。

在日本“全國和菓子協會”網站上,講述了各種“和菓子的由來”,其中關於慄羊羹是如此介紹的:

中國から茶と共に伝わった點心「羹(あつもの)」がルーツといわれる羊羹。元々は、羹という字のとおり羊の肉片が入った「汁もの」でした。當時、獣肉食を嫌った日本では、その汁の中に羊の肉に似せたものを小麥粉や小豆などでつくり入れていました。その汁から中味が取りだされたものが羊羹のはじまりで、當初は蒸し羊羹でした。煉羊羹は江戸時代寛政の頃 (1800年頃) に寒天が発見されたことにより新たに誕生したものです。「本煉り」「小倉」「慄」などの代表的なもののほかに、全國各地に様々な羊羹があります。例えば、北海道には特産の昆布を生かした「昆布羊羹」。佐賀県には「小城羊羹」。愛知県には尾張の殿様に獻上したことから名付けられた蒸羊羹の一種で、とても柔らかい「上り(あがり)羊羹」など。特産物や歴史にいわれを持つものなど地方色豊かです。買うときに、由來を尋ねてみるのも楽しいものです。

從和菓子的歷史上看,受到唐代點心的影響很大,遣唐使每次都會帶來唐帝國的風物,關於渡來的唐菓子大概有八種:

羊羹:關於吃的文化交流

唐菓子形態

不僅唐菓子傳來影響了日本菓子的製作,傳說在大唐的中日交流中鑑真大和尚的東渡把砂糖也帶到了日本。鑑真帶來的砂糖,在當時當然是珍貴的,只有貴族才有資格享受,更多的人只能使用日本傳統的甜料“甘葛”。平安時代,留學中國的日本僧人開始把茶帶回日本,鎌倉時代榮西和尚寫了《吃茶養生記》,日本開始盛行吃茶之風,茶點也陸陸續續登上歷史舞臺。據說,同樣是在鎌倉時代,禪僧將中國的羊羹帶回了日本,成為不可或缺的茶果子。室町時代中葉,由於從中國傳來的砂糖越來越多,傳統的“甘葛”逐漸被廢棄,和菓子的製作也躍升了新的等級。

關於慄羊羹的傳入,青木直已如是論述:

中國に渡った僧侶は、羊などの動物や魚を使った羹を見聞きし、食べもしたでしょう。……その羹を日本へもたらした禪僧達、しかし本來彼らは魚肉食を禁じられていました。寺院の中では小豆や大豆などの豆類や米・小麥をはじめとする穀物を粉にして練って、魚や羊や豬などの肉に見立てて成形した蒸し物に、汁をかけて食べていました。いわゆる精進の見立て料理です。(和菓子の今昔 2004)

黑川光博如是說:

羊羹はもともと中國の料理で、読んで字のごとく羊の羹(あつもの)であった。これは羊の肉を煮て、ゼラチンで固めたものである。鎌倉時代から室町時代に、禪僧によって日本に伝えられたが、禪宗では肉食が禁じられているため、羊肉の代わりに小豆を用いたものが、日本における羊羹の原型になったとされる。中國では羊肉入りのとろみのある汁物だった。しかし日本では羊肉は手に入らず、また禪僧は肉食を禁じられていることもあって、葛、豆粉、小麥粉などを使っているうち、蒸羊羹のようなものになったと考えられている。 (和菓子の歴史1997)

在日本學者的觀點裡,基本都承認慄羊羹源於中國,由禪僧傳到日本。在中國的慄羊羹是真的有羊的,在日本的寺院裡由於不能用到羊肉,便換作小豆等植物原料。那在中國的典籍裡,羊羹又是什麼樣的呢?

從漢字的角度看,小篆的“羹”與現在一樣從羔從美,初意應該是煮羔羊而成濃稠的湯。按照常理,這種濃稠的肉湯隨著溫度的降低以及時間的推移,會慢慢形成凝固的瓊脂狀。羊羹的說法在先秦就已經出現了:

鄭國按照楚國的要求去討伐宋國,宋國大夫華元在迎戰前殺羊犒賞三軍,鼓舞士氣。不知什麼緣故,他的車伕羊斟沒有分到羊羹。羊斟心胸狹隘,因此而怨恨華元,居然不計後果,在陣前自作主張驅車出陣,故意將主帥送給敵人,以解沒有喝到羊羹之恨,直接導致宋軍的失敗。宋國為救華元,答應以兵車百乘、戰馬四百匹贖回華元。東西還沒有全部送到鄭國,華元卻趁機跑回了宋國。楚國對鄭國接受宋國贖金放走華元一事非常生氣,第二年春天即出兵討伐鄭國。鄭國因此背叛楚國,與晉國親近。隨後又有一系列的事件引發也楚國與宋國的戰亂。這樣一碗羊羹導致三個國家都陷入戰火中,真是匪夷所思,這個典故也因此流傳開來。

在南北朝時,羊羹是流行於南北方的食物。《宋書·毛修之傳》記載“修之嘗為羊羮以薦虜尚書”,《魏書·孝感列傳》中講趙琰“過路傍主人設羊羮”。從目錄上看,崔浩有《崔氏食經》四卷,今已亡佚,其中就有羊羹的製作方法。現在崔浩的方法,還可以從《齊民要術》的引用中找到:

作胡羮法:用羊肋六斤,又肉四斤,水四升,煮出,肋切之,蔥頭一斤,胡荽一兩,安石榴汁數合,調其味。

這樣做出來的羊羹恐怕應該是濃稠的肉湯,而且應該是鹹的。不過,到了宋代,陳簡齋有《玉延賦》,其中說到:“汙之以蜂蜜,辱之以羊羹。”這當然是在說宋華元。但是在朱熹的吟詠山藥的詩中,這樣化用“雪鏟但使身長健,石鼎何妨手自烹。欲賦玉延無好語,羞論蜂蜜與羊羹”,與蜂蜜並列的羊羹,在宋代恐怕就已經是甜的了。至於形態,還是無從考證。

日本的羊羹由禪僧傳入,中國的禪僧也知羊羹味。北宗禪僧德寶有詩言:

小園春雨後,旋摘晚松香。盡道羊羹美,誰知此味長。

法演禪師也曾說過:“羊羹雖美,眾口難調。”可見,在中國的佛教中,羊羹確實扮演過美味小食的角色。日僧無著道忠在《禪林象器箋》中也曾說道,禪林飲食中有餖飣、饅頭、羊羹等物。

中國的羊羹不論以何種形態出現過,但被承認傳入到了日本,並在日本形成了現在的樣子。而天津特產的慄羊羹,恐怕遠遠不是中國羊羹本土發展的結果,必定是由日本逆輸入後的仿製。但無論如何,在太平洋西岸的漢字文化圈中,人們能夠欣賞共同的味道。這一點就足以成為東亞的榮耀。